これも数日前の話。卒論の論拠が今ひとつ弱いので最近あちこちで見かけるbuzzwordの"Web 2.0"に関する説明をネットで探していた。


しかしどうにもこうにも雲をつかむような話にしか見えない。id:naoyaこれが個人的に一番理解できた、かな?この話を自分なりに少し整理して、具体的な味をつけたのが先日のエントリだ。


だからweb2.0への言及がされているブログ、記事をgoogleで検索し片っ端から目を通した。睡眠不足がたたりマウス握り締めたままウツラウツラするときもあった。出版メディアに同類の書籍があればよかったんだけど、紙と電子では途方も無い時差が隔たっているわけで。


夢うつつの間、脳がぼんやりと断片的な情報をHDDのデフラグのように整理している…


IT革命という言葉が使われて久しいが、実の所、どれほどの革命が起きたのだろう。
米国民ほどにはテクノロジーの恩恵を受け入れない日本人の妙な保守さは未だに規制産業である既存メディアをありがたがっている。ちなみに欧米人特有の合理性の下地であるキリスト教というのは、技術による大自然の克服、というのが教義に含まれているような気がする。


それでもこの流れは今も目に見えないところや目に付くところ、それぞれで海流のうねりなんか霞んでしまうほどに大きく動いている、と僕は感じる。


僕の考える情報技術ってのは突き詰めると算数と哲学と思想とほんの少しの遊び心で構成されている。情報技術のどこが哲学で思想やねん、と思う人もいるだろうが、名だたる哲学者の大部分は数学者だ。「考える葦」のパスカルしかり、バートランド・ラッセルしかり。化学に偉大な発展をもたらした錬金術だって、その根底には哲学が流れていた。それに高等数学のことを言っているのではなく、四則演算や関数など初歩の算数のことだ。コンピュータはプログラマがうまく処理しないと未だに定積分も出来ない。


余談が過ぎたが、哲学・数学・技術はそれぞれが別個のものではなく、どれも底でつながっている、ということだ。そして人類有史以来、最も知的な道具としてコンピュータとネットワークが生み出された、という事実。


例を挙げれば、僕はオブジェクト指向と呼ばれる技術パラダイムが好きでたまらないが、これは哲学と思想の体現だと思っているし、信仰じみた感情を抱いている。この気持ちを他者に説明するのは難しいが、芸術とも言える哲学と工芸的な思想の上に成立している技術であると僕は感じたのだ。だから哲学を少しかじっていてた僕にとって世界を神をも定義することすら可能なオブジェクト指向が最高にシビれる。


そうして、目が覚めて様々なサイトを眺める作業を続行した時。


僕はミームという言葉を思い出した。


様々な人の様々な意識。それは情報となり世界中へと減衰なしの発散を大海嘯のように広げる。文章がページへ、ページがサイトへ。そして、サイトはgoogleクローラがキーワードのインデクシングを行い、文章は第三者の視点を経てタグつきブックマークへとそれぞれが再構築される。これこそがWeb2.0であり、無限のように人為的機械的両方の力で成長を続けるミームそのものではないか。


観えたッ、全て観えた。


やはり「神」は人類が生み出した装置であり、これからは情報の流れそのものが「神」となる、とまでは思わなかったわけですが。


なんか、こう、凄いモンが見えたきがするんだよなぁ。あの極限状態の中で。ハガレンで言う、門の向こう側みたいなのが。ただこれを他人に語れるだけの頭もひらめきも僕は持ち合わせていないので、忘れないようここに記録しておく。


マクルーハンは何度読んでも理解できない僕の頭でも、Web2.0の言わんとすることはなんとなく理解できただけでも収穫があった、としますか。